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2012.01.14 00:53

世界に平和を
国のために命を捨てた大日本帝国時代の日本人やユダヤ人を虐殺したヒトラー政権下のドイツ人が今の僕らよりも愚かで狂っていたとは思わない。
現在の世界が平和ではない以上、未来の人間から見ると今の僕らもまた狂っているように映るのかも知れない。物事は移ろい続けて、いつまでも完成しない。
新宿駅を歩けばこの寒い中段ボールの中で人が捨てられたように寝ているのを見て、あの人はどうして寝ているの?と聞く子供に対して親は子供の目を塞ぐか話題を変えるか、お前もああならないように勉強しろと言う。なんとなく存在している正義や道徳を握りしめて、小さな胸を張ろうとするのだけれど、こんな世の中が正常であるとは思っていない。
未来の人々は全体のためというのは自分のためであるという考え方を確立させていて、ホームレスを助けないなんて人間ではない、狂っていると驚くのかも知れない。
僕らは気づけば親や権力者たちの考え方にそうように取り繕うことばかり覚えて、今日の自分に向き合うことをやめる。
今日の夜にいい食事、いい寝床、いいセックスが用意されていれば平和な気持ちでいられる、というのが僕の現在の実感だ。だけれど性は抑圧され侮蔑される空気が世間にはある。男も女も盛んな人は夜の闇に隠れなければならない。永世中立国のスイスでは売春を国が認めている。
慈愛だとか平和だとかはもう死語のようになっていて口にするのは宗教家だけ。
取り繕うのをやめにしたい。この間、瞑想していたときにこんな言葉が浮かんで書きとめた。ゆっくりとすべてを失うのならば、今すべてを解放しよう。
ネットの時代は心を解放させる時代なんじゃないかと思う。個人というのが曖昧なものになっているんだ。あの人もこの人もひとつ。誠実な想いは尊重され検証されるべきだ。
人々にいい食事、いい寝床、いいセックスを。慈愛の心を。世界に平和を。
また誰も知らない明日が来る。おやすみなさい。

おはよう。新しい今日が来た。
僕は健康な体に、いい食事、いい寝床、いいセックスができて、ミュージシャンとして尊敬されていればもう人に与えようと思えるほどの慈愛が溢れてくる。どれかがひとつ欠けていたくらいでも攻撃的な気持ちにはならない。僕は僕の考えが他人にも当てはまるとは思わないけれど、まったくすれ違うとも思わない。ずっと自分だけがおかしいんじゃないかという恐怖があったけれど、最近狂っていない人などいないという考えに至った。皆自分の窓からしか世界を見れない以上、それぞれに狂っていて、それぞれに正しい。だからこそ、自分の中にあるまっすぐな心は表現してそれを世界に問わなければ、苦しいのは自分だし、溜め込んで撒き散らすことになると危険だ。
死刑制度が揺れているように、ぎりぎりのところでは投げ出したくなるような混沌と虚無が渦巻いている世界だ。それでも前を向いて生きようとしている自分がいる。生きたいと思う。
三つのあという言葉を聞いた。あせらない、あてにしない、あきらめない。
あ、今日も歌わないと。みんないい一日を。

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